BENTI NENQAの世界〜エチオピアを旅してVol.1

遂にコーヒーの聖地;エチオピアを訪れる日が来ました...2019年11月

アフリカ〜

FWCFを始める前まで暮らして来たニュージーランド、最初に行った海外は香港でした(まだ19の時)、その後アメリカ大陸(学生時代の21の時;一人で大陸を縦横断した...今までで一番の冒険だった気がする)その後就職、独立してコーヒーを求めてシアトル...NZ...




産地は今まで中米が多く、グァテマラ 、ホンジュラス 、ニカラグア 、コスタリカ を巡り現在も商社経由で仕入れを行なっています...



そして遂に訪れたアフリカ;エチオピア〜



3年ほど前からMETAD社との取引を開始してALAKA,BUKU,GOTITIと素晴らしいロットを扱って来てすっかりエチオピアのコーヒーに魅せられています。
ここが「聖地」、コーヒーの聖地巡礼に出掛けて来ました...
中々書く事が出来ず3ヶ月ほど経過してしまいましたが、書き綴る事が多いのでシリーズ化して行きたいと思っています。

KALDI:カルディという名前を聞いた事ありますよね??
ショッピングモールや駅ビルに入っているお店?確かに有名です。
でもその名前はどこから来たの??と辿っていくとコーヒーの伝説(おとぎ話)に行き着くのです。このカルディこそがエチオピアの山奥の山羊飼いの少年だったのです。
ウィキペディアにはこう書かれています↓

カルディはある日、藪に生えている赤い実を食べた自分の羊の群れが活発になり飛び跳ねているのを目撃し、自分でもその果実を齧ってみた。すると途端に陽気な気分になったため、近くのイスラームの修道院の僧侶のところへ持参した。しかしその僧侶は果実を使用することを認めず、火に投げ入れてしまった。するとそこから心惹かれるような芳香が漂ってきた。焙煎された豆は残り火から直ぐさま搔き集められ、熱湯に溶かされ、これが世界で最初のコーヒーとなった





時代は変わっても現代の山羊飼いはエチオピアの山奥に限らず、大都市アディスアベバ近郊でも存在していた事にまず感動させられました〜

先ずエチオピアという国はどんな国なのか??
正式名称はエチオピア連邦民主共和国、アフリカ大陸でリベリアとエチオピアの2国だけが独立を守り切った黒人国家なのです。滞在中に感じた事は、とにかく日本の民謡というか演歌の様なリズムのエチオピアンミュージックのみラジオから流れていて、UKやUSAのPOPSやROCKは一切聞く事がなかった事も非常に印象深い思い出です。


20代の半ばはレゲエが好き(ROCKが一番ですが...)で、東京で毎年夏にレゲエのフェスが開かれ、ボブ・マーリーはもちろん(既に他界;永遠のレジェンド)息子のジギー・マーリーのバンドやビッグ・マウンテンやマキシー・プリースト、シャイン・ヘッド、シャバランクス等が一声を風靡していたレゲエ・ジャパン・スプラッシュなどに足を運んだ記憶も。そのレゲエの聖地(多分聖地はジャマイカ ですが、聖地となったきっかけラスタファリの聖地)がエチオピアにある!と聞いて興味がありますが...
今回はもちろん「COFFEE 聖地」訪問の為、機会があったら是非行ってみたい〜


そのレゲエと最も関わりの深い人物が”エチオピア帝国最後の皇帝”ハイレ・セラシエと言われています。独立を保ったエチオピアもハイレ・セラシエ1世の時に栄華を誇ったのは束の間でイタリアに1936年〜1941年に統治され(イタリア領東アフリカ)ハイレ・セラシエ1世はジブチを経て、ロンドンに亡命、その後ファシスト・イタリアがイスラム教のオロモ人を優遇し、キリスト教徒のアムハラ人を冷遇したと事により、「黒い獅子たち」と呼ばれるゲリラが攻イタリアのレジスタンス運動を行い、第二次世界大戦に入るとイギリスと手を組んだ皇帝ハイレ1世がアディスアベバに凱旋帰国し、東アフリカ戦線の激戦の末、再び独立を勝ち取った...ついつい歴史が好きなのでどうしても調べてしまうんです。

レゲエの話に戻ると1930年に皇帝に即位したハイレ・セラシエの影響は、カリブ海のイギリス植民地ジャマイカ のマーカス・ガーベイの思想的影響を受けていた黒人の間に(後のボブ・マーリーもその一人)ハイレ・セラシエを黒人の現人神たる救世主「ジャー」とみなすラスタファリ運動(レゲエの象徴;ラスタカラー)を高揚させ、アメリカ大陸の汎アフリカ主義に勢いを与えた事が現在のレゲエの聖地と呼ばれる所以なのです。





コメント